平成31年1月
天融寺住職 宮本 正尊
 天融寺檀信徒の皆様には常日頃、寺門の護持と御法義の相続・発展のために種々ご協力を賜り、深く感謝申し上げます。
 さて昨年一年を振り返りますと、当寺の法座には実に多くの布教使・御講師の方々がお見えになりました。その中でも、特に深く印象に残っておりますのは、春季彼岸会にお越しになられた大谷大学名誉教授の延塚知道先生でした。先生は自らの身の事実を通していただかれた浄土真宗の教えを毎日三席(一席約45分)、一週間にわたり、全身全霊をもって熱心に、かつ懇切丁寧に、そして折々にユーモアを交えながらお話くだされ、聴聞に来られた大勢の御門徒の皆様を魅了されると共に、多大の感銘をお与えになられました。そこには語る者と聞く者がお念仏の教えを通して一つに感応し合う、かけがいのない聞思の時間・場が現成したことでした。あらためて、蓮如上人の「仏法は聴聞にきわまる」というお言葉をかみしめさせていただきました。
 ところで、今、世界には自国第一主義やポピュリズム(大衆迎合主義)の嵐が吹き荒れており、今後の世界情勢も油断の許されない状況となっております。
 そのような中、現在アメリカで仏教徒の数が凄まじい勢いで伸びているということは注目に値します。すなわち、アメリカでは仏教徒の数がこの40年間で17倍も増え、全米人口の約1%に当たる320万人となっており、さらに仏教徒と明言しないが仏教的行動をとる仏教共感者や、調査で「宗教に関して仏教に強く影響された」と答えた人々も含めると、全米人口の10%(約3千万人)という驚くべき数が仏教に深く関わっているといわれます。(ケネス田中、武蔵野大学教授の報告)。
 このような仏教徒激増の原因・背景として、田中教授は、現代のアメリカ社会は、若さ・健康・楽しさ・成功・進歩を極端に崇拝、肯定する面が顕著であるが、反面、老い・死・苦悩・失敗・格差などという人生の影とみなされている面に向き合い、それに対応する論理や思想が比較的弱かった。そこに到来した仏教は、特に死という影に光を照らし、死への不安や恐怖が転換され、バネとなることを主張してきた、という点を指摘されています。
 私は、その背景として、より根源的には、《自己および自己と関われる世界をどのように受け止めるか》という問題に関し、人間および世界を創造した絶対神・創造神を認める有神論的宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)と、それを認めない無神論的宗教(仏教)では受け止め方が大きく相違するという点も顧慮されるばきであろうと思います。
 有神論の場合、完全・無限(不死)・清浄(無垢)なる絶対者が何故この世界と人間を不完全・有限(死すべきもの)・汚濁(悪)に満ちたものとして創造されたのかという論理的矛盾についての神義論の問題が、古来より派生しております。また万物が神の意志によって創造されたとする場合、進化論との関係をどのように理解すべきかという点で軋轢(あつれき)も生じております。
 仏教の場合、いかなる場面においても創造神を立てません。従って、人間および人間と関わるこの世界は、諸条件による関係性によって生起し、成り立っている(縁起の思想)と受け止めます。それゆえ一切は無常(生滅変化してとどまることなく移り変わること)であり、無我(不変の本質を有しないこと)であるのです。さらに、縁起説は、私たち人間の迷いの生存・苦しみの生存は如何にして(何にもとづいて)このように成立しているのであるか、というその所以を考察して明らかにし、同時に、その根本の条件を滅することによって、私たちの迷いの生存・苦しみの生存も滅ぼしうることを教えています。
 このような、有神論的な宗教と無神論的な宗教としての仏教に関し、特に科学との関係から注目すべき主張をされているのは、約100年前に相対性理論を発見し、20世紀最大の物理学者と称讃されているアインシュタイン博士です。以下に、博士の言葉をいくつか紹介してみます。
 「宗教なき科学は不完全(欠陥)であり、科学なき宗教は盲目である」
 「生きる意味は何か、その質問に答えるのが宗教である」
 「仏教は近代科学と両立可能な唯一の宗教である」
 「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは仏教である」
 このように、博士は、科学では解決できない人生の大切なことを仏教が教えてくれると主張されております。
 さらに博士は、宗教には次のような三つの段階(ステージ)があると言われます。
 【第一段階】「恐れの宗教」(原始人にとって宗教的な教えを引き起こすものは、何より「恐怖」である。つまり、飢え・野獣・病気・死に対しての恐怖である。そこで生贄(いけにえ)をささげたりして、機嫌をとろうとする)
 【第二段階】「倫理的(社会的)宗教」(宗教を形づくる第二の源泉は社会的感情である。指導や愛情・保護を求める願いは社会的倫理的な神の概念を引き起こす。それは信賞必罰をつかさどる摂理の神である)
 【第三段階】「広大無辺な(宇宙的)宗教」(めったにみられないが、第三ステージの宗教がある。私はそれを「広大無辺な(宇宙的)宗教」と呼びたい。広大無辺な(宇宙的)宗教は、神の概念がないため、縁のない人に説明するのはとても難しい。広大無辺な(宇宙的)宗教の要素がとても強いのは仏教である)
そうして博士はこうも言っておられます。
 「仏教は未来の宇宙的(コズミック)な宗教に期待されるべき特徴を持っている―人格神を乗り越え、独断的な教義と神学を避けているし、自然なるものとスピリチュアル(精神的・霊的)なるものの両方を含み、自然的なものもスピリチュアルなものも、あらゆるものを有意義な統一体として経験するところから出発する宗教的な感覚に基づいているからだ。
 このようなアインシュタイン博士の所論を参考にしながら考えてみますに、おそらく、有神論的宗教と無神論的宗教をめぐり、そして自己と世界に関し、博士と同質の問題意識を持たれた人々が、アメリカやヨーロッパで、否、全世界において仏教に関心を持ち、共感し、そして仏教徒になるということが起こっているのでないかと推察されます。
 実に、仏陀の教えは古くて新しいと言えます。それは甦りとしての新しさといえます。このような時代だからこそ、私たちは仏陀の教え(真実)を聞いていかなければならないと思います。
 どうか今年も共々に聞法にいそしみましょう。ご来寺をお待ちいたしております。
天融寺責任役員 安宅 信義
 天融寺門徒会会員の皆様方には、平素より寺門護持と聞法活動にご尽力をいただき、厚く御礼申し上げます。
 さて、昨年九月の台風21号、そして続く胆振東部地震と、石狩地域では未曾有の大災害が発生しました。皆様のご家庭や、ご親類の中には被害甚大であった方々もおられることと拝察いたします。心よりお見舞い申し上げます。
 天融寺におきましても、これらの災害によって被害がありました。第一無量寿堂前の枝垂れ柳の大枝が折れ、本堂正面道路脇の銀杏の木の大枝も折れてしまいました。銀杏の大枝は、鐘楼堂の屋根上に落下しましたが、幸いに鐘楼堂は無事でした。トド松の木も何本かの倒伏がみられました。
 又、地震によって中庭の灯籠三基のうち二基が倒れ、そのうちの一基の一部が破損して使用できなくなっています。本堂内部では、参詣席上方の土壁が一箇所崩落しました。土壁については報恩講までに修復されましたし、倒木は適切に処理することができました。作業がひと段落し、ホッとして居るところです。
 昨年の報恩講には、布教使に近藤龍麿師(岐阜県大垣市)をお招きしました。近藤師には、プロジェクターを用いて「親鸞聖人御絵伝」のお話を聞かせていただきました。近藤師のお話を聞くことで、毎年報恩講で拝読される『御伝鈔』が、より身近なものに感じることができました。
 近藤師には報恩講に続いて秋初穂感謝法要でも法話をしていただく予定でしたが、近藤師の御母様が急逝され、御自坊に戻らねばならぬ事態となってしまいました。そのために、再度近藤師のお話を聞くことができず残念なことでした。近藤師の御母様の急逝に思うことは、私どもも、いつお浄土へ向かうのか分からぬ身を生きているということでした。元気である今のうちに仏法を聞き、心安まる日々を過ごしたいものです。
 報恩講の時にも少しお話を致しましたが、天融寺では、毎月2回の定例法座、春・秋の彼岸会、永代経法要など数多くの法座(仏教のお話を聞く場)は開かれています。それらの法座は、皆様からの門徒会費によって賄われています。決して無駄にしないで下さい。一人でも多くの方々が法座に出席されることをお願いして、私の挨拶と致します。    合掌


天融寺門徒会会長・総代 弘中正利
 天融寺門徒会々員の皆様方には、ご家族お揃いで新春をお迎えになられたこととお慶び申し上げますと共に、常日頃より天融寺の寺門護持に何かとご協力を頂き、厚く御礼申し上げます。
 お陰様をもちまして、昨年予定しておりました諸行事も滞りなく無事に済ますことができました。これもひとえに門徒会々員一同のご協力があればこその結果であり、重ねて御礼を申し上げます。
 天融寺では、毎月4日と27日の月例法要、その他各種ご法要が営まれております。ご都合のつく方はお誘い合わせの上、お参りくださいますようご案内申し上げます。
 門徒会々員の皆様のご健勝をお祈りしつつ、ご挨拶にかえさせていただきます。   合掌
聞法を通して     准坊守 宮本 芳子
 早いもので天融寺に嫁いで2年がたちました。この度紙幅をいただきましたので、ご法話を聞く―聞法―ということについて私なりに記してみたいと思います。
 天融寺で法座が開かれる「お参り」がある前日の夕方は、決まってお寺の鐘が撞かれ、その音が近隣に響き渡ります。鐘の響きというのは一種独特なもので、聞くたびに「ああ、明日はお参りの日だ」と気づかされると同時に、深々としたその響きに違う世界の入口に立ったような不思議な気分にさせられます。
 お参り当日の様子を簡単に記しますと、まず朝10時に本堂でお経があがり、11時より一席、昼休みを挟み1時より二席御法話をいただきます。一口に御法話といっても布教使の先生によって内容は様々ですが、御自身や御門徒のお話を瑞緒に仏教の教えを紐解いていかれる形が多いように思われます。参詣席に座られる御門徒の方々に目を移しますと、笑い声や涙、深い嘆息など御法話に対して鮮やかに反応される御姿があります。嫁いできた当初は御法話を聞くことに慣れていなかった私でしたが、皆さんの頷きに触れるにつれ、徐々に身がほぐれ耳が開かれてきたように思われます。長きにわたり聞法を続けられてきた方々と同じ御座にいられることは、連綿とつらなってきた天融寺における聞法の歴史を実際に肌で感じていることと同義です。このことは私にとって得難いことのように思われます。
 今の世の中、すぐに役に立つ情報が重宝され、便利であることが良いとされています。そのような風潮の中、度々お寺に足を運んで御法話を聞くということが、時代に合わないように思われる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、避けようもないことに向き合わなければならないとき、役に立つ情報というものはどれだけ自分を支えてくれるのだろうか。仏教の教えに触れることで、そのようなことを感じるようになりました。この2年の間で得た聞法の感触というのは、一席一席の御法話に瞬間的に感化されるいわば点の性質と、聞き続ける中で自分を苦しめているものの本質を知り、苦しみの只中にいるとき見えなかったものが徐々に距離をもって見つめられるようになるという線のような性質です。世の理を知り引き受けていくことは、悲しみや苦しみに向き合う際に大きな支えとなってくれるのではないでしょうか。
 聞法ということについて記そうと試みてみましたが、まだまだとらえどころがなく言葉に落とし込めないことが多くあります。しかしながらこの2年間で感じたことをまず足掛かりにして、これからも聞法し続けていきたいと思っています。
 先に記したように、天融寺のお参りの前日には鐘が撞かれます。お近くにお住まいの方はその響きを耳にされることも多いかと思います。「そういえばこの音は、明日のお参りの合図だったな」と思いを巡らせていただいて、お一人でも多くの方にお運びいただければ幸いに存じます。
台風21号と北海道胆振東部地震の被害について
2018年9月の台風21号、並びに北海道胆振東部地震によって被災されました皆様には心よりお見舞い申し上げます。
天融寺でも台風によって境内樹木の倒木が多数発生致しました。また、地震によって本堂参詣席土壁の崩落、納骨堂仏具の破損、並びに中庭灯籠の破損などの被害が出ました。ここに写真によって被害状況の報告をさせて頂きます。


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