平成30年1月
天融寺住職 宮本 正尊
 檀信徒の皆様には、常日頃、寺門の護持と御法義の相続発展のためにご理解とご協力を賜り厚く御礼申し上げます。
 さて、昨年一年は、一昨年秋に懸案となっていた『天融寺寺誌』を何とか完成・発刊することができたことや、若院の婚儀を無事執り行うことができたこともあり、久方ぶりに平穏で落ち着いた日々を送らせていただきました。ある意味で、心身ともに今後へ向けてゆっくりと充電させて頂いた感のある一年でありました。
 私も昨年、世間でいう古希を迎えました。今年は残り少なくなっていく自らの人生に一層心を致し、為すべきことを為すべく、いたらないながらも自分の分限を尽くしてまいりたいと願うことです。檀信徒の皆様には、これまでと変わらぬご交誼とお力添えの程をお願い申し上げます。
 ところで、今私たちの生活は、科学技術の飛躍的な発達によっていろいろな面で大きく変わろうとしています。
 特に人工知能(AI)の発達には目を見張るものがあります。チェスや将棋・囲碁の名人たちが次々と人工知能にうち負かされたのは、私たちにとって非常な驚異であり、ショッキングな出来事でした。ある専門家によれば、2030年頃には、人間と同じようにさまざまな知的作業をこなす「汎用人工知能」が登場し、それが人間の仕事をどんどん奪っていって、今から30年後の2045年頃には、全人口の一割しか職につけない社会になるかもしれないという衝撃的予測もされています(井上智洋著『人工知能と経済の未来』文芸春秋社刊)。この予測を全面的に受け入れがたいとしても、間違いなくAIが人間を脅かす未来、人間がAIにかなりの部分で依存せずにはおれなくなる時代がやってくるように思われます。
 このようなAIが支える未来の生活の中で、「人間にできてAIにできないことは何か」というような観点から、現在以上に人間という存在そのものをより深く探ねることも起きてくるのではないでしょうか。
 将来、AIがたとえ皆さんの人生についてアドバイスをしてくれるようなことが起ったとしても、生きることそのこと、死んでいくというそのこと自体はAIに代わってもらうことはできないし、もちろん誰も代わってはくれないでしょう。
 現代においても未来においても、「自己とは何か」、「人と生まれた意義とは何か」、「自分はいかに生き、行為すべきか」、「本当の幸せとは何か」「自分にとって死とは何か」、「どうしたら自分の人生に真に納得して終わることができるのか」というような人間存在の根源に関わる問いについては、自己自身が自ら探ね求めていかなければならないのです。つまり、科学がどんなに進歩発展しても、科学そのものは決して直接的には、人間の生きる意味や価値については答えてはくれないのです。したがってAIが支える未来の社会・生活の中において、人間が自分自身の存在の意義を見失わないためにも、「真実の教えである仏法を依りどころとして生きる」という求道者としてのあり方(大乗菩薩道)そのことは、今以上に一層切実さをもって求められていくのではないかと推測されます。
 iPhoneなどで知られるアップル社を創業したスティーブ・ジョブス氏は、仏教思想に強い影響を受けたと言われていますが、彼は有名な2005年スタンフォード大学卒業式で、「やがて我々は皆『死ぬのだ』ということを念頭に置くことが、私の人生の重要な決断をする際に、最も重要な手立てとなった」と学生に訴えています。これは、彼の人生観の根底に仏教的な死生観があったことを示すものです。
 そして、この言葉は、私ども真宗門徒にとりましては、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」という蓮如上人のお言葉と重なり合って聞こえます。
 今年は、私どもも死すべきいのち、限りあるいのちを生きているという自覚に立ちながら、今からの人生において、真に何が一番大事なことか、何が急がなければならないことかを自分の身に引き当てて明らかにさせていただくべく、仏法聴聞に励んでまいりましょう。そして、このことこそが、今世間で言われている終活ということでは究極の終活、まことに終活と言えるのです。
 門徒の皆様のご来寺を心よりお待ち申しております。
天融寺責任役員 安宅 信義
 天融寺門徒会会員の皆様方には、平素より寺門の護持と聞法活動にご尽力をいただき厚く御礼申し上げます。
 お陰をもちまして、昨年の報恩講も当番区の方々にお手伝いをいただき、無事終了することができました。お斎も美味しく出来上がり、お参りに来られた方々に好評でした。お手伝いをいただいた方々には、心より御礼申し上げます。
 報恩講には、たくさんの御門徒の皆さんに参詣いただきました。私の中で特に印象深かったことは、報恩講2日目の夜に行われた「初夜兼追弔法要」の法話の時間です。愛する人を失ったご遺族の皆様を中心に、参詣された方々が皆熱心に聴聞なさっておられました。中には目頭を押さえながら聴聞される方もおられたようです。悲しみを機縁としながら仏法に触れ、何かを感じられたのだと思います。そのような時間を共に過ごすことが出来たことは、意義深いことであったと思います。
 この頃、毎日のように新聞やテレビなどで「人間関係が荒れ果てた世情」について報道されています。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。以前、天融寺にお越しになった中村薫先生(同朋大学教授)が、法話の中で次の言葉を紹介して下さいました。「世の中は『こそ』の二文字のつけ処。治るもこそ、乱れるもこそ」。皆様は、この言葉をどのように受け止められるでしょうか。
 天融寺では、毎月2回の定例法座、春・秋の彼岸会法要、永代経法要など年間で50回の法要が開かれています。今年は、皆様方が一人でも多くお寺に足を運んで、法座に参加してくださることをお願いして、私の挨拶に代えさせていただきます。
 皆様のお越しをお寺でお待ちしております。

天融寺門徒会会長・総代 弘中正利
 天融寺門徒会々員の皆様、門徒会の諸行事も皆様方のご協力により、滞りなく進めさせていただきましたことに対しても、厚く御礼申し上げます。
 我々凡人が仏法の真髄を理解するということは、並大抵のことではなく、月2回の法話を拝聴する中で、仏法の奥深さを感じております。それでも、布教師さんの説教を拝聴するたびに漠然と理解できることもあり、心が洗われることがあります。
 お寺に足を運ぶということは、普段の気持ちが大切なことであり、習慣を身につけることが肝要なことではないでしょうか。多くの御門徒の皆様がお寺に足を運ばれることを期待しております。
 先日、ある新聞のコラムにいわく。
「食べ物をいくら残しても叱られない時代が来た!それは同時に胃袋でない形の新しい飢えのはじまりである!」と・・・!?
 ひもじさには二つの形があるといいます。
 一つには、窮乏の生活からくる空腹。
 もう一つは、強い不安や鬱屈からくる 心のやつれ!であるといいます。
 ひもじさ、つまり存在の乏しさは、窮乏の生活からくる空腹から強い不安や鬱屈からくる心のやつれへと移り行き、それが今、貧困が重い足かせになりつつある・・・と筆者は言う。
 私たちのいのちは、食べること、つまり他の生き物の命をいただくことで支えられている。食は、私たちの生の根底にあるもの。しかし、現代では、この食が危機に瀕している。家庭での手作りの料理の減少、「個食化」「孤食化」の進行・・・。食の危機は次世代の健康を損ない、食文化の伝承を妨げます。
 真宗寺院では昔から報恩講など仏事の折々に「お斎」をいただいてきました。
 お講のたびに食事をくりかえり繰り返し共食することで門徒同士のつながりを深めてまいりました。そして何より、それぞれの家庭の手作りの漬け物を食べ比べながら、お参りに見えた方々と和やかな一時、至福の時を過ごすのが楽しみであり、地域の人々との繋がりもまた広がるのです。
 真宗寺院のお斎、特に報恩講のお斎は、地域の人々が大勢集まって、畑作農家は、大根・人参・ジャガイモ・ゴボウ・小豆・トラ豆・、稲作農家は米などを持ち寄り、お手伝い当番の女性の方々が調理場を縦横無尽に動き回り、日頃から鍛えた料理の腕をふるってできあがります。まさに地域の人々が力を合わせないとつくれない味わいです。
 ところで、現今は、社会的に人口減少社会の到来、核家族化の進展と地域共同体の崩壊、少子高齢化がもたらす急激な老齢化社会という現象が進む中で、家庭の食卓は欧米化し、食料自給率の低下等様々な問題も生じています。日本の伝統的な食生活が揺らいできた感がいたします。次世代の食の事情はと申しますと、先述したように「個食化」「孤食化」など、家族団欒といったこととはほど遠い環境にさらされています。
 そうした意味で、お寺のお斎は、普段お寺に縁のない方や報恩講を知らない若い世代が、祖父母につれられてお斎をいただくので、その場で大勢の人々と一緒に食することの意味を感じ、そこに流れる温かな空気を感じ、そして優しい眼差しを感じ、これらのことが、やつれきった心に沁み込んでいくのでは・・とあわい期待を寄せている私です。
 まさに空腹を満たすための食べ物だけではなく、心身ともに輝けるいのちをはぐくむための食べ物なのです。多くの生きとしいきるいのちを
“み光のもと われいまさいわいに この浄き食をうく いただきます”
といのちを頂戴するのです。
 お斎を通じて、精神的栄養となる仏法のことば、親鸞聖人が一人ひとりを支え励まして下さっておられることばを心のやつれを癒やすべく届けたい。必ず届くと信じて、お講のお斎をその都度そのつど、新鮮な気持ちをもちつつ繰り返し続けていきたいと思います。

お盆清掃奉仕のお斎


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