編纂:天融寺寺史編纂委員会      執筆:宮本正尊(天融寺第五世住職)
発行:真宗大谷派 千歳山 天融寺   制作:株式会社 アイワード
「寺史」 あとがきより
天融寺第五世住職 宮本正尊
 このたび、かねてよりの念願でありました『天融寺寺史』を発刊できますことは、無上の喜びであります。
 また、発刊が大幅に遅延した事に対する申し訳なさと、なんとか発刊にこぎつけることができたという安堵感で一杯であります。
 思えば長い長い道程でした。
 当初、本書は、『天融寺開教百年誌』と題し、昭和61年7月に厳修された天融寺開教百年慶讃法要の記念出版として上梓される予定でありました。
 このため、まず、昭和60年12月より所蔵資料の整理に着手し、大略的な資料目録・年表を作成すると共に、開教百年法要の際に予定されていた門徒功労者表彰の基準・根拠とするための歴代総代・世話方名簿を一応整理、作成し終えて、開教百年慶讃法要を迎えたことでした。
 昭和61年7月4〜6日の開教百年慶讃法要が終わると、直ちに同月25日に「草創期の天融寺を偲ぶ座談会」を開催し、古老の御門徒の皆さんの記憶に残っている当寺草創期に関する情報を収集すると共に、同年8月下旬には開基住職の出身寺である山形県天童市の緑陰寺と、第二世住職の出身寺である石川県内灘町室の明證寺を訪ね、各御住職より明治期の貴重なお話を伺うことができました。
 ここに昭和61年暮頃には、記念誌全体の章立て等の基本構想もほぼ纏まったので、時間を見つけては執筆を進めることになりました。
 しかし、いざ文章にするという段になりますと、草創期の資料を一つ一つ丹念に読み解き、かつ他の所蔵資料との関連や、同時代の本山・教区の動向も十分考慮しながら天融寺草創期の歩みを辿っていかねばならず、また自らの生来の遅筆も手伝って、ある程度納得のいくものを書こうとなると、かなりまとまった時間と労力を費さねばならないということが判然としてきました。
 しかし開教百年法要厳修の際には若院であった私も、法要後再度四世住職が体調を崩したこともあって、否応なく寺の内・外において全面的に法務・寺務の第一線に立たねばならなくなり、かつ平成2年には第五世住職を襲職することとなったため、じっくりと腰を据えて執筆に取り組むまとまった時間をもつことが次第に困難になっていきました。
 このため、執筆作業もいわゆる賽の河原のように進んでは戻り進んでは戻りの状態となりがちで、ついには、どうしても当面する法務・寺務を優先するため、寺史の執筆は明治38年代に入ったあたりから、長い休眠状態に落ち入ってしまいました。
 ただ、その間も、寺史編纂執筆の件は喉にささった刺のように決して忘れたことはなく、所蔵資料の整理、資料目録や天融寺年表の補充、そして当寺の過去の事蹟についての聞き取り調査等は細々ではありますが折々に積み重ねてまいりました。
 住職を継承した後は、まず新納骨堂・新座敷の建設という大事業に取り組むこととなり、平成9年11月には蓮如上人五百回御遠忌(お待ち受け)法要、新納骨堂・新座敷落慶法要を厳修させていただくことができました。
 さらに平成23年10月には、当寺の会館・納骨堂(第二無量寿堂)・庫裡が無事完成し、翌平成24年11月には、それらの落慶法要と宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を御本山より御門首御夫妻をお招きして盛大裡に厳修することができました。
 ここに、天融寺として当面する諸事業・諸行事も、檀信徒の皆様の絶大なる御協力を得まして何とか一応完遂させていただくことができ、無事一つの区切りをつけることができました。
 そこで、平成25年1月の総代会におきまして、長年懸案となってきた寺史編纂刊行の話が持ち上がり、今度こそ是非とも発刊を実現したいという気運から、住職の寺史執筆・編纂作業を支援するべく編纂委員会が設置され、寺史出版へ向けての編纂活動が再開されることとなりました。
 また、これまで執筆作業を長らく休止していた私自身も、当面する事業、行事等が一段落したことと相俟って、長男、次男の二人の若院が各々学業を終えて帰院し、当寺の日常の法務を手伝ってくれる状態となっていたこともあり、これまでとは違って、多少やり繰りをするならば、執筆のための少しまとまった時間も取れそうな状況となってきていたので、鋭意心を奮起して寺史発刊へ向けて執筆活動を再開することにいたしました。
 まさに寺史編纂の機縁が純熟し、時機が到来したといってもよいのでしょう。
 編纂作業の再開に際し、編纂委員の皆さんとの話し合いの中で、まず、出版社を決め、編纂初期の段階から出版専門家の方に相談に乗ってもらいながら作業を進めることが完成への近道であろうということになりました。
 早速、平成25年5月に(株)アイワードと出版契約を結ぶ運びとなりました。
 当時(株)アイワード専務取締役・営業本部長で、翌年社長となられた奥山敏康氏と担当社員の柿木卓氏には、その後五十数回を重ねた編纂会議にほぼ欠かさずご出席くださり、特に奥山社長には全体的な装幀・構成から本文の細部にわたるレイアウト、豊富な写真の挿入による誌面の可視化等について多大なご指導、ご助言をいただきました。
 私の執筆作業は、平成25年5月から再開いたしました。
 まず、以前からすでに粗粗整理されてあった天融寺所蔵資料のすべてをもう一度最初から一点一点内容を確認しながら整理し直すと共に、新たな資料を補足・補充する作業に取りかかり、同年12月末には天融寺所蔵資料目録・天融寺年表・天融寺歴代役員名簿を大方整理、作成し終わりました。ちなみに、資料目録の資料点数は、昭和60年暮の粗整理の際のほぼ倍近くにものぼりました。これらの基礎作業にほぼ8ヶ月が費されました。
 ひきつづき、平成26年年頭より本格的に本文の執筆に着手いたしました。本文は牛歩遅遅としてではありましたが、一章ずつ書き上げられ、当初の目標であった昭和61年の開教百年慶讃法要に関する第五章までほぼ書き終えたのは平成27年4月頃でした。
 この段階で、総代会において、《開教百年法要より30年近く経った現時点で寺史を発刊するのであれば、たとえもう少し刊行が遅れても、この30年近い天融寺の歩み・歴史も書き足した形で是非とも出版したいものである》ということになり、急遽開教百年法要以降今日までの天融寺の歩みを第六章として書き加えることとなりました。この結果、本書の本文をすべて書き終ったのは平成28年春のことでした。
 これにともない、本書の書名も当初予定していた『天融寺開教百年史』から『天融寺寺史・百三十年』とすることになりました。
 なお、最初の計画では、序章として「北海道開拓と東本願寺」を記載する予定でありましたが、出版時期が大幅に遅れていてもう時間的余裕がないことから、また、現如上人の北海道開教に関する書物や記述がこれまでにいくつも公刊されていることも鑑みて、今回は止むなく割愛することにいたしました。
 ところで、天融寺の寺史編纂の必要性を痛感したのは、開教百年慶讃法要を迎えた際でした。天融寺にとっての歴史的法要を勤めるに当たって、《いったい当寺の開教百年に当たる年は何時なのか、寺号公称に至る経緯はどうであったのか、旧本堂が建ったのは明治何年か、本尊阿弥陀如来立像が当寺に招来されるに至った経緯はどうであったのか、門徒功労者表彰式を行うにしても、総代・世話方名簿は主に戦後のものしか残っておらず、いったい草創期から終戦までの総代・世話方はどんな方々であったのか》等々、当寺の開教以来の事情については今一つ判然としない事が多く準備の段階で閉口したからであります。
 というのも、当寺にはこれまで、開教以来の歴史をある程度まとめた著述、記述はほとんど何も残っておりませんでした。多少なりとも具体的に当寺の開教事情に言及しているものとしては、昭和12年4月に第三世住職が起草した「天融寺本堂再建趣意書」所収の、天融寺創立に関する簡単な記述があるくらいでした。しかし、この記述内容については、本文中で触れた通り、どうも当寺所蔵資料等が示す史実と符号しない点が若干認められ、草創期の実状を把握するうえで、全面的には依拠しがたいことが分かってきました。
 このように、当寺の開教事情およびそれ以降の歩み、歴史がどうもはっきりしなくなってきた背景の一つとして、歴代住職間における伝承の断絶を挙げうるのではないかと思われます。
 当寺の場合、開基住職と第二世住職との間には1年以上の住職不在期があり、住職間の直接的伝承が途絶えているわけです。おそらく、第二世住職は、当寺最初期の開教事情に関しては、門徒の古老の皆さんや当寺と縁の深かった方々から聞き知った程度の認識しか持ち得ていなかったのではないかと想像されます。この点では、第三世住職も事情はそう変わらなかったものと推察されます。さらに、第四世住職は、小学校卒業と同時に親元を離れて京都の大谷中学校に進学し、やがて第三世住職の急逝によって急遽大学2年の学業半で帰寺し、住職を継承することになりました。
 このため、第四世住職は生前よく《自分は天融寺の過去の事跡や歴史についてはほとんど何も直接第三世住職より聞くことなく終った》と述懐しておりました。
 このようなこともあって、何とか少しでも開教以来の天融寺に関する具体的情報を収集できないものであろうかと考え、開教百年法要終了後、主だった門徒の古老の方々にお集まりいただき、前述した「草創期の天融寺を偲ぶ座談会」を開催したことでした。
 この時集まられた古老の皆さんは、ほとんどが明治三十年代生まれの方々でしたが、開基住職の代のことを正確に記憶している人は誰もおられず、たまたま当時寺の近くに住んでいた二人の方が、子供心に薄らと憶えているわずかな思い出をお話くだされた程度でした。開基住職の代の古い写真を見せても、それが何の時の写真か判る人はだれもおりませんでした。座談会での思い出話、回想談は、どちらかというと第三世住職の代の事が中心となっていた感がありました。
 思うに、この座談会に出席された古老の方々も、親に代って当寺へ足繁く通うようになったのは壮年以降の場合が多く、草創期のことを憶えていたとしても、それはせいぜい子供の頃の微かな思い出程度のものであったのでしょう。
 以上のような当寺の現状を鑑み、この度の開教百年を勝縁として、天融寺所蔵資料そのものをきちっと精査し、それに基づき当寺の開教以来の歩み・歴史をできる限り明らかにしておきたいと考え、寺史の編纂、刊行を発願するに至った次第であります。
 さて、当寺のおいて寺史の編纂を構想し始めた矢先の昭和60年4月、北大インド哲学研究室の先輩諸先生方6名が参加された北海道開教史研究会の編纂による『北海道開教史の研究−個別寺院・神社・教会所蔵資料目録−』が発刊されました。
 本書の「はじめに」には次のように述べられています。
「・・・・・・・・北海道開教史の研究は、ともすれば教理・教学・神学的視点から観念的に把握されてきた宗教史のありかたに対し、入植移住者の動態をふまえた個別神社・寺院・教会の形成史をあとづけることで、時代人心のもつ内的世界をうかがわんとするものである。このことは、時代を生きた人間の精神的きづなとして、いかなる活力を生み出していたかを村落生活を場として問うことにほかならない。本目録は、そのような開教史研究の基礎作業として、まず道内の神社・寺院・教会の襲蔵資料の整理をてがけたものである。こうした基礎作業こそは、個別神社・寺院・教会講社の検討をふまえ、近代日本宗教史を具体的に再構成する上からも重要なこころみと思う。 ここに「北海道開教史の研究」として本目録を刊行するのは、日本宗教史研究が個別具体像をもって構成される上での一礎石として、かつ今後に各地でこころみる上での一指標たらしめたいとの祈念にもとづいている。・・・・」
 ここでは、開教史研究の基礎作業として、個別寺院等の襲蔵資料の整理と資料目録作成の重要性が指摘されております。
 私も当寺寺史執筆に際しては、前述のような事情もあり、このような資料整理、資料目録の作成は避けて通れない作業であろうと思量しておりましたところ、たまたま昭和60年12月に、北大インド哲学研究室の先輩である駒沢大学北海道教養部の近藤良一教授より、当時北海道教育大学岩見沢分校助手をされ、北海道開教史研究会の一員として道内のいくつかの寺院、神社の襲蔵資料整理に実際に携わられたことのある村田文江先生に、資料整理を手伝ってもらってはどうかという助言をいただきました。これは願ってもないことでしたので、早速お願いし、同年12月20日過ぎに二度にわたり来寺いただきました。
 この頃、当寺の襲蔵資料は、特別重要と見做された一部を除いて、ほとんどは多数のスチール製の箱やダンボール箱等に混然と収納されて、本堂裏の押入(戸棚)に保管されてありました。そこで、村田先生の指導のもと、これらの襲蔵資料一点一点を内容を確認しながら特定の紙袋に納め、袋表面に資料名・内容・年代・差出人・請取人等を記し、年代順に並べて整理すると共に、これらに基づいて粗粗の資料目録を作成することができました。このような資料整理は、その後も筆者により、気が付くたびに追加・補足する形で今日まで綿綿と続けられました。
 本書は、このような天融寺所蔵資料に極力忠実に依拠しながら、資料そのものに当寺の開教以来の歩み・歴史を語らせるよう意を注ぎ執筆させていただきました。
 また、このような方針に則り、筆者が直に経験し、関知するようになった第四章後半、すなわち昭和三十年頃以降から第五・第六章についても、なるべく客観性を保つべく心がけ、資料に基づく一種の記録書、報告書のつもりで執筆いたしました。しかし、どれだけこのような執筆者の意図が全うできたかは定かではありません。読者諸賢の判断におまかせしたいと思います。
 なお、この度執筆を再開するべく当寺所蔵資料を再整理し、資料目録を一から作り直した際に、北海道立文書館主任文書専門員の原美恵子女史には、当方の求めに応じ全国の幾つかの文書館における資料目録の作成事例を紹介、教示くだされると共に、これまで解読に今一つ自信の持てなかった当寺所蔵文書数点につき、その解読にご助力・ご助言をいただきました。ここに記して謝意を表します。
 ところで、本書の編纂は元より天融寺開教以来の歩み・歴史をできうるかぎり明らかにしておきたいということが本旨でありますが、それと同時に、遠く本州よりこの北辺の地に移住して来られた大勢の入植者の皆さんが、酷寒・貧苦と戦いながら、いかに心血を注いで天融寺の創立と発展のためにご尽力くだされたか、また聞法の道場としての天融寺を舞台として、いかに真摯に先祖伝来の浄土真宗の教え、お念仏の御法義を生きる依り所として聴聞されてこられたかという、開拓者とその子孫の方々の宗教的営為の歩みを、具体的事例に即して少しでも記録として留めておきたいという願いが込められています。
 このため、紙幅の許すかぎり随所に、当寺のこれまでの諸事業・諸行事等に関わられた多くのご門徒の方々のお名前や名簿を煩を厭わず掲載させていただくことといたしました。
 このような、一般の方にとっては多少煩瑣に映るかもしれない本書の叙述も、今日の天融寺がこのような今は亡き無数の御門徒の皆様方の並々ならない念力・信力によって創立され、営々として護持されてきたことに対する報恩謝徳の念い、かたじけなさの念いに基づくものであることをご諒解いただければと存じます。
 本書は、北海道沿岸部の諸寺院よりやや遅れて開教が始まった北海道内陸部の農村を地盤とする一真宗寺院の開教の歴史でありますが、当寺が辿ってきた歩みは、おそらく同時代の他の多くの真宗寺院、しいては仏教寺院が開教以来かかえてきた諸事情と少なからず通底するところもあろうかと思います。そのような意味で、本書がささやかながらでも、北海道開教史を考えていく上での一礎石とも、また恵庭の郷土史・民衆史を把握していく上での一助ともなれば筆者の望外の喜びであります。
 なお、本寺史執筆に際し、特に『東本願寺北海道開教百年史』(昭和49年10月、真宗大谷派北海道教区発行)の本編(多屋弘師執筆)からは多くの裨益を蒙りました。記して謝意を表します。
 最後になりましたが、本寺史編纂・刊行へ向けて並々ならぬ情熱をもって編纂作業にご支援・ご協力くだされました編纂委員の皆様、特に五十数回に及ぶ編纂委員会にほぼ欠かさず出席くだされ、最後まで筆者の牛歩のような執筆作業を根気強く見守り、激励し、支援し続けてくだされた松本博樹、青山保、出倉祥男の三名の編纂委員の方々と、(株)アイワード社長・奥山敏康様、同社アートディレクター柿木卓様には衷心より感謝とお礼を申し上げます。そして、本書刊行へ向けて誠心誠意ご尽力くだされました(株)アイワード様には、筆者の力量不足により執筆作業が大幅に遅延し、多大のご迷惑をおかけしました。心よりお詫び申し上げます。