令和2年1月
天融寺住職 宮本 正尊
 平素より寺門の護持と御法義の相続・発展のために種々ご協力を賜り、深く感謝申し上げます。
昨年は全国各地で異常気象による大規模な自然災害が頻発し、大勢の方々が甚大な被害に遇われました。被災された皆様にたいしまして、あらためてお見舞いを申し上げますと共に、一日も早い復興をお念じ申し上げます。また、不幸にもお亡くなりなられました方々には衷心よりおくやみを申し上げます。
 このような中、私どもは道央の地において、なんとか平穏無事に新年を迎えることができました。あらためて、言い知れぬ有難さ、お蔭をかみしめさせていただくことです。
 さて、昨年私にとりまして特に心に残った出来事としては、5月に、日本尊厳死協会北海道支部石狩南部地域懇話会より、<仏教からみた尊厳死>について何かお話をいただきたいという要請を受け、「終末期と尊厳死について」というテーマで少々お話をさせていただいたことです。私は以前、北海道文教大学で「人間と倫理」という講義を担当していた際、生命倫理学を取り上げ、その中で安楽死・尊厳死についてお話をしたことがありました。それ以降、特に尊厳死そのものを取り上げてお話をする機会はありませんでした。たまたま平成18年2月に、『安楽死・尊厳死の現在−最終段階の医療と自己決定』(松田純著・中公新書)という本が出版され、特に終章において、尊厳死をめぐる現在の課題のありかが簡明に提起されております。このような課題は私も以前から抱いておりましたので、この問題提起を押さえながら、仏教の教えからどのようなことが言えるのかを、あらためて自分なりに整理し、確認してみたいという気持ちから、このお話をお引き受けすることにいたしました。
 さて「尊厳死」を『広辞苑』で引いてみますと、「一個人の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること。近代医学の延命技術などが、死に臨む人の人間性を無視しがちであることの反省として、認識されるようになった。」とあります。
 ところで、日本でいう「尊厳死」は国際的な用法とずれがあるといわれます。日本尊厳死協会のホームページでは、「尊厳死は、延命治療を断って自然死を迎えることです。これに対し、安楽死は、医師など第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早めることです。どちらも「不治で末期」「本人の意思による」という共通項はありますが、「命を積極的に断つ行為」の有無が決定的に違います。協会は安楽死を認めていません」として尊厳死と安楽死を峻別していますが、世界的な傾向としては、両者は言葉づかいの上では明確に区別されていないといわれます。したがって、「日本でいう「尊厳死」をめぐる議論は、人生の最終段階における医療のあり方を問うものであり、具体的には、生命維持装置の中止ないしは不開始をめぐる問題なのである」(前掲書)といわれます。しかし、そこでは、「人間の尊厳」とはどのようなことか、また、尊厳な意味を持つ人間の死とはどのような死か、というような「尊厳死」そのものがはらむ意味内容が十分に理解されないまま現在に至っている観があります。
 「人間の尊厳」については、西洋思想と仏教とでは、その受け止め方に大きな相違があると思われます。ヨーロッパでは「人間の尊厳(性)」がいわれるとき、その背景として、特にルネッサンス以来のヒューマニズム(人間性の肯定、人間尊重の思想)と、カントの道徳哲学の影響が強く、さらにその根源にデカルトに始まる理性的自我にもとづく人間観、世界観が認められます。
 カントは、人間は自律的で道徳的な主体であり、「目的そのもの」であるから、これをもっぱら手段や道具としてのみ扱ってはならないとしました。そこから、<人間は@知性(理性)を持ちA自己を絶えず変革し向上していく創造性を持ちB自律的な主体であるがゆえに尊厳に値する>という理解が導き出された(前掲書)といわれます。
 しかし前掲書の終章では、人間を理性と自己決定能力だけで見る見方、すなわち<「自律的な存在」モデル>の限界が指摘され、人間を「自由にして依存的な存在」としてとらえかえしていこうとする現在の新しい傾向が紹介されております。このような人間理解の傾向は仏教の人間観に通ずる面を持っています。
 さて、仏教では、真の人間の尊厳(性)は仏陀(迷いから目覚められた人)の人格において認めます。釈尊の時代より、人々は仏陀・如来のことを「世尊」(一切世間において最も尊い人)、「無常尊」(この上なく尊い人)、「最勝尊」(最もすぐれた尊い人)などとお呼びしてきました。
 歴史上、仏陀となられた釈尊(釈迦族出身の聖者)は、「精神的、物質的な一切のものは、種々の原因・条件によって生じる」という縁起の道理、無常・無我のことわりを悟って仏陀となられました。
このことは、「いのち」に即していえば、「『私』が生きている」という自我を前提とした「いのち」から解放され、「生かされている『私』」という無我の「いのち」、縁起の道理によって成り立っている「いのち」に目覚めたことを意味します。
それはまた、自ら利益を得る(悟る・幸福になる)ことと、他人を利益する(救済する・幸福にする)ことを兼ね備えたお心(自利利他円満心)をもって生きる尊い人間の誕生ともいえます。
 したがって、仏教では、自我の囚われ(執着)・はからい(分別)から解放されたあり方(無我の悟り・涅槃)にこそ、人間にとっての真の尊さ(尊厳性)を認めているといえましょう。しかしながら、私ども迷える凡夫にとって、この自我の束縛から解放されて涅槃(無我の悟り)に至るという道は、それほど容易なことではありません。十方三世の諸仏は、この涅槃の実現のために種々の修行の完成(六波羅蜜)を私たちに勧めておられます。いずれも尊い道でありますが、いざその道を歩み始めてみますと、自力でそれを全く完成できる人はほとんど居られません。この現実を深く憐まれて、アミダ様は念仏成仏の道を私たちに勧めておられるわけです。
 海のように広く深い御本願より名告り出てくだされた南無阿弥陀仏御名号には、真実・無我・利他のお心(摂取不捨の御慈悲のはたらき)が具っております。アミダ様からの「南無せよ!」「帰命せよ!」という仰せにお応えしてお念仏を申させていただくということは、仏様から振り向けてくだされている真実・無我・利他のお心(摂取不捨の御慈悲のはたらき)を信じ、頂戴させていただくということです。『歎異抄』にいう「如来よりたまわりたる信心」とはこのことを言うのです。これはまた、私の心に私を超えた心(仏様のお心)が起こってきて、今までの私の心(無明の闇)をお破りくださることでもあります。
 真宗門徒は、平素より御本願のおいわれをお聞かせいただき、決して尊いとはいえない迷える凡夫であるわが身に、尊い真実・無我・利他なる仏様のお心を頂戴し、それにお照らし頂きながら人生を歩ませていただいてまいりました。このことは、結果として、仏様の方より尊厳な意味を持った生を賜ることであり、それを尽くさせていただくことにおいて、自ずと尊厳な死(往生成仏)を迎えさせていただくこととなるのです。
 現代の私たちは、ともすると死を忘れて生の充実にのみ関心をもって生きていないでしょうか。死の間際になってターミナルケアやホスピスの問題となっている現状が、このことを物語っているように思われます。
 私たち真宗門徒は、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏申すべきなり」という御文の言葉が示すとおり、平生より常に死を見つめながら生(今)を生きてきた伝統があります。今般、尊厳死の問題を通して、あらためて真宗門徒の日常の聞法生活の尊さを思うものです。今年も共々に仏法を聴聞してまいりましょう。ご来寺をお待ちいたしております。
天融寺責任役員 安宅 信義
 令和二年の輝かしい新春を健やかに迎えられましたことを心からお慶び申し上げます。天融寺檀信徒の皆様には、平素より寺門の護持と聞法活動にご尽力いただき厚く御礼申し上げます。
 昨年は、日本各地で台風や大雨などの自然災害が多く発生した年でしたが、皆様の地域では如何だったでしょうか。天融寺では、大きな被害もなく安堵致しているところです。
 さて、昨年一年間の中で、皆様のご家庭で一番嬉しかったこと、一番楽しかったことは「どんなこと」だったでしょうか。新年を迎えるにあたり、そうした嬉しかったこと、楽しかったことを今一度、振り返って見ることも必要ではないかと思います。
 天融寺では、候補衆徒(若院)の宮本浩尊さんご夫妻に長女の翠(みどり)ちゃんが誕生され、誠におめでたいことでした。私も門徒の一人として、とても喜ばしいことと感じています。本当におめでとうございます。どこの家庭においても、子供の誕生ということは、その家庭の中が賑やかになり、明るい雰囲気に包まれるものです。
 天融寺では、年末の31日に除夜の鐘が撞かれます。その際に、ご家族で鐘を撞きに来られて、お子さんたちと共に本堂でお参りなされている方の姿を拝見すると、心が温まる思いがします。この除夜の鐘では、ボーイスカウトの青少年の皆様のお手伝いを頂いております。大変ありがたいことですし、若い方がお寺と関わりを持ってくださっていることは嬉しいことです。
 私の思いでありますが、天融寺では年間50回の法座(仏教のお話を聞く会)が開かれています。しかし近年では法座で顔を合わせる方の人数が少なくなり、非常に残念に思います。仏教の教えは、数を重ねて「聞く」ことが肝要なのだと思っております。今年は、一人でも多くの方が法座に出席していただきますことを祈念して私の挨拶と致します。合掌

天融寺門徒会会長・総代 弘中正利
 天融寺門徒会会員の皆様方におかれましては、ご家族お揃いで健やかなお正月をお迎えになられたことと思い、お慶び申し上げます。
門徒会会員の皆様には、常日頃から何かとお寺の行事に快くご協力頂き、厚くお礼を申し上げます。
 私ども真宗門徒は、仏法に親しみ、親鸞聖人の教えを心の支えとして、日々の生活を精一杯に生きていくことが大切であると感じています。その為には、お寺で開催されている種々の聞法会(仏教の教えを聞く会)に参加して、仏教の教えに耳を傾けることの積み重ねが大事ではないでしょうか。また聞法会という場は、会員が互いに直に顔を付き合わせて、様々な話をする機会でもあると思います。今年も天融寺では、数多くの聞法会が開催されます。ご都合の付く限りで結構ですので、是非 お寺にお越し頂き、会員相互の融和を広げていたければ幸いです。
今後とも、門徒会会員の皆様方のご支援の程よろしくお願い申し上げ、年頭の挨拶に返させていただきます。
聞法を通して     准坊守 宮本 芳子
 大切な人を亡くした時、人は耐え難い「悲しみ」や「寂しさ」を感じるものです。私事ですが、昨年11月末に、私が天融寺に嫁ぐまでずっと一緒に暮らしてきた大伯母(祖父の姉)が亡くなりました。今回、紙面を頂戴して、大伯母の葬儀を通して私が感じたことを記したいと思います。
 実家からの電話で、大伯母の死の報せを聞いたとき、なかなか実感が持てませんでした。
 実家に戻り、大伯母のご遺体と対面して、私の記憶より痩せ衰えてしまったお顔を拝見し、ようやく「大伯母が亡くなったのだ」という実感と、「悲しい」という感情が私の心に溢れてきました。
大伯母の葬儀までは約一週間ありました。その間、実家では葬儀の打ち合わせや諸々の手配など、細々とした成すべきことが沢山ありました。
 葬儀の準備を進めて行く中で、折々に家族の者達と「大伯母との思い出」を語り合いながら、共に泣き、笑いあいました。通夜、葬儀、そして還骨法要と、一連の儀式をすべて勤め終わったあと、どこか安堵し身体の緊張が解かれるような感覚になったことがとても印象的でした。
 私たちは、愛する人の死に際して、悲しみに暮れながら「亡き人を見送らなくてはならない」と気持ちを奮い立たせて、故人との思い出を共有する人たちと共に葬儀を勤めます。葬儀の儀式は、伝統的な形式に則って粛々と勤められます。
 今回、大伯母の葬儀を通して、改めて儀式が形式的であるということに意味があるのだと感じました。葬儀が形式的であることの意義は、遺族が、悲しみに押しつぶされそうな気持ちを抱えながら亡き人を見送るとき、一定の形式があることで「亡き人を見送る」という一点に集中することができるのだなと実感しました。
 そして、初七日から四十九日までの中陰の期間、百箇日法要と順次にお勤めをしていくたびに、私たちは改めて故人を思います。もちろん、儀式を正しく実施したからといって、私たちの中から「悲しみ」や「寂しさ」が完全に消え去ることはないでしょう。それでも丁寧にひとつひとつの仏事をお勤めすることを通して、愛する人の死と少しずつ対峙していけるのではないかと思うのです。
 「通夜」という言葉の本来の意味は、葬儀までの期間、毎夜、線香を絶やさないために寝ずの番をしながら、故人を偲ぶ時間を言うのだと聞きます。実家でも、葬儀までの一週間、家族で交代しながら毎晩「通夜」を営みました。ある晩、私が通夜の当番を勤めていたときのことです。ふと顔を上げると大伯母の棺の向こうに阿弥陀様がいらっしゃることに気づきました。棺はお内仏の前に安置されていたので当たり前のことなのですが、日頃聴聞の場で耳にする「亡き人を縁として」という言葉が耳底から立ち上がってくるように思いました。私はそのとき、確かに大伯母を縁として、阿弥陀様の存在に気付いたのでした。
 近年、直葬と言って、葬儀を行わずに火葬してしまう方も多いと聞きます。様々な理由があることと思いますが、今回の大伯母の葬儀を通して、改めて葬儀とは亡き人のためのものに留まるものではなく、遺された私たちが「死」を意識し、阿弥陀様と出会って行く場であるのではないかと思いました。


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