令和3年1月
天融寺住職 宮本 正尊
 新年を迎え、謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
天融寺檀信徒の皆様には、平素より寺門護持と御法義の相続・繁盛のため様々ご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、昨年度は、日本中、世界中で新型コロナウイルスの感染拡大が続き、社会のあらゆる分野に深刻な影響を与えてきました。
 当寺でも、昨年三月より六月初旬までやむなくすべての法座を休ませていただきました。非常事態宣言解除後の六月中旬より法座を再開致しましたが、飛沫感染防止の上から御斎(食事の用意)を全て取り止め、これまで十時からであった法座開始時間をすべて午後一時からに変更いたしました。また、彼岸会、報恩講も日程を多少短縮した形でつとめさせていただきました。そして、法座の際は、手指の消毒、マスクの着用をお願いし、いわゆる三密を避けるため参詣者相互の座席の間隔を十分取り、換気にも十分配慮しながらの実施となりました。
 今年度の行事につきましては、いまだ新型コロナ感染症の終息が見通せない状態であることから、当面は昨年の法座再開時の対応に順じる形で実施してまいり、状況の変化には柔軟に対処してまいりたいと考えております。
なお、私も住職に就任以来、今年で丸三十年が過ぎ、三十一年目に入りました。年齢も満七十四歳になります。私にとりましては、住職在職三十年が当初からの目標として意識してきたことでありますのと、若院も私が住職になった年齢に達しましたので、今年、住職を若院と交代いたすことといたしました。コロナ禍で確定的なことは申せませんが、一応四月二十六日から二十八日まで御本山で「住職修習」の研修を受けてもらい、十一月の報恩講中に住職襲職(継承)法要を執り行いたいと考えております。
 さて、今まで経験したことがないような今回のコロナ禍をきっかけに、私たちは自分の人生を根本から見直さざるをえなくなっているのではないでしょうか。『無量寿経』に「老・病・死を見て世の非常を悟る」(人の世の老・病・死という苦のありさまを見て、形あるものが常ならずして頼みがたいことを悟る)とありますが、新型コロナウイルス感染症も老・病・死の問題であります。時代は変わっても、老・病・死に惑い苦しむことは変わりません。今、感染症を怖れる人がいます。感染して苦しむ人がいます。大切な人を亡くして悲しみ途方に暮れている人がいます。自分もまた同様です。ただ、この事実を縁として、世の非常(無常)を悟る、つまり、コロナ禍という危機が出離生死の(生を固執し、死を畏れる迷いの生活から解放される)仏道に生きる転機となることが要であり、願われているといえます。厳しい状況が続きますが、今年も共に聞法してまいりましょう。
前責任役員 安宅 信義
 謹賀新年、天融寺檀信徒の皆さまにはつつがなく令和三年の新春を迎えられましたことと心からお慶び申し上げます。平素より寺門護持と聞法活動にご尽力いただき厚くお礼を申し上げます。
昨年は世界各国、日本でも新型コロナウイルスが広がり道内でも第二波第三波と、なかなか終息の時期が定まらない中で皆様方にはお元気でお過ごしのことと推察致しております。
このような中でも天融寺では三密を避け、感染対策を優先し、規模を縮小しての定例法座や報恩講も無事に終わらすことができました。これも皆様方のご協力があったからこそと思っています。今年度はどのようにできるのか?今から心せねばと思っております。
今年は副住職宮本浩尊さんが天融寺第六世住職に就任されますことを受けて報恩講の時には住職継承式が執り行われる事と思います。大勢の方々に参加していただきたいと今からお願いを致しておきます。
 また、昨年十一月末には任期満了に伴う責任役員の改選があり、私も長い間責任役員を務めさせていただきましたが、このたび一身上の都合により退任を致しました。新しい責任役員は川上章さんがが就任されましたのでよろしくお願いいたします。私は今後もひとりの門徒として皆様方と膝を交えて法座に合わさせていただこうと思っております。その節はなにとぞよろしくお願いをいたしてご挨拶と致します。 合掌

天融寺責任役員 川上 章
 天融寺の御門徒の皆様には、おだやかな新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
日ごろは、お寺のために色々とご協力をいただき厚く御礼申し上げます。
さて、この度、不肖私、はからずも長いことお寺の為にご尽力くだされた安宅信義様の後を継いで、天融寺責任役員をつとめさせていただくことになりました。
もとより浅学菲才の身ですが、皆様のお力添えをいただきながら、先祖以来受け伝えられてきた天融寺の護持、発展のために微力を尽くさせていただきたいと思いますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。 合掌
仏教とオンライン     准坊守 宮本 芳子
 二〇二〇年は、新型コロナウイルスに対する不安を抱えて過ごさなければならない一年となってしまいました。現在でも、日本のみならず、世界中の誰もが何らかの制約を受けながら、思うようにならない毎日を送っているのではないでしょうか。
 天融寺では、北海道による緊急事態宣言の発令に伴って三月から六月初旬までの間、定例法座をはじめとする全ての行事を休止、または延期しました。夏期永代経法要から法座を再開しましたが、現在に至るまで御斎の提供を中止し、時間を短縮して実施せざるを得ない状況が続いています。
 他者との直接的な接触を可能な限り避け、感染対策をしながら過ごす日々は、今年一年で私たちの日常になってしまいました。「新しい生活様式」という言葉も登場しました。その中で注目された言葉に、「オンライン化」があります。仕事の業態にもよりますが、在宅勤務が推奨され、インターネットを利用して仕事を行い、離れて住む家族や友人とはインターネットを利用して連絡をとるなど、これまで以上にインターネットを利用する機会が増えました。皆様の中にも、実際に体験された方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 宗教界においても、行事を「オンライン化」する動きが活発になっています。六月に緊急事態宣言が解除されて間もないころ、私は、オンラインでの聞法を経験しました。感染症に対する不安を抱えて生活する中で、仏教のお話を聞くことができたことは、私にとって大きな助けになったと思っています。
コロナ禍の中で、コンサートや講演会、識者の対談など、様々な行事が「インターネット配信」という形で配信されるようになりました。私自身、そうした講演会や対談などを視聴したことがありましたが、オンラインでの聞法は、講演会や対談などを視聴したときとは違う感覚を感じました。
はじめは、本堂の御本尊の前で聞法することが当たり前と思っていたものを、自室でコンピュータの画面越しに聴聞することに対する違和感かと思ったのですが、どうやらそれだけではないようでした。
よくよく考えてみると、私の感じた違和感は、法話の内容に心動かされ、画面の向こうにいる他の参加者の方々との連帯を感じているのにも関わらず、言いようのない寂しさを感じてしまったことに起因しているようでした。
 通常の聞法と、オンラインでの聞法を比較して考えてみました。聞法は、板書された文字や配布された資料を見ながら、講師の声に耳を傾けるものです。しかし、私にとって聞法は、それだけに止まらず、視覚・聴覚を超えた身体感覚と結びついているのかもしれないということに思い至りました。
ここでいう身体感覚とは、本堂という空間で、そこに集った方々の間に座し、共に法話に頷き、共にお念仏を唱和する体験によって感じる感覚だと思います。講師の言葉による働きかけと共に、場の雰囲気が私に及ぼす影響がこれほど大きいとは、正直思っていませんでした。
 他宗と比較して、真宗寺院の本堂の参詣席が広いのは、聞法する場としてのはたらきがあるからだといわれます。その本堂において、誰かと共に聞法する中で、思わず口からこぼれる嘆息や、参詣者のお念仏の声が重なり合う響きを感じること。そのような身体感覚がオンラインでの聞法では感じられなかったのです。
 オンライン聞法という体験を通して、普段の聞法の場がいかに大切なものなのかを実感することができました。まだまだ感染収束の見通しが立たない不安な日々が続いておりますが、与えられた一座一座を大切に過ごしていきたいと思っております。


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