天融寺所蔵 阿弥陀如来立像並びに胎内納入文書について


昭和34年 北海道の有形文化財に指定
昭和61年 東京芸術大学美術学部教授 水野敬三郎氏他2名の方々が、本像並びに納入文書を調査され、水野教授より懇切なる調書が天融寺に寄せられている。以下はこの調書によるところが多い。
本像は明治38年、天融寺開山新羅天融が京都市本町の仏工田中文弥(定朝法印38世)より譲り受け、本山の点検裏書を受けて天融寺本尊として安置したものである。この前年の2月、田中文弥により本像が修理を受けた際、腹中より納入紙片3枚が発見された。それ以前の伝来は不明であるが、一説には、京都の由緒深き某寺院より譲り受け、損傷著しいので当時京都の代表的仏師であった田中文弥に修理を依頼したとも言い伝えられている。
天融寺は明治35年に本山へ「寺号公称願」並びに「木仏安置願」を出願、翌36年にこれらが許可されている。
おそらく新羅天融は明治36年から37年にかけて御本尊を求めて上京し、この御木像に巡り合い、天融寺へ請来したものと思われる。

像高 77センチ
品質構造 ヒノキ 漆箔
本像はその作風に鎌倉時代前期の特色を示し、納入文書にあるように建保2年(1214)に造立されたものに間違いない。このような来迎形の阿弥陀如来立像は、当時仏師安阿弥陀仏快慶のもっとも得意とするところであった。しかし、そのやや広い顔つきや左肩で衲衣を大きく折り返す形、下半身の衣文のさばき方などにこの期の快慶とその周辺の仏師とはことなる特色を見せており、一方、鎌倉光触寺阿弥陀三尊像中尊とそれらの点で共通する特色がある。光触寺阿弥陀三尊は、建保3年(1215)仏師運慶作と伝えられており、運慶作は信じられないが、そのころの運慶派の作品と考えられる。本像も快慶よりはむしろ運慶につらなる仏師の手になるものとみられるが、その作家は特定できない。

胎内文書
胎内から取り出された紙片3枚は、昭和45年、美術院による修理の際、年月日順に配列して裏打ち巻子装とされ、又裏書きのある部分は窓貫として別に保存されている。
これらの胎内文書は木像建立の願文である。願文中「引摂」という表現が見られることから、本像は浄土教の臨終来迎思想に深く影響を受けて造像されたものと思われる。
また、奥書には「正五位下藤原秀康」とあるが、この方は承久の乱(1221)で院方の総大将であった藤原秀康にあたると考えられる。

参考文献 
水野敬三郎他編 「日本彫刻史基礎資料集成」
 鎌倉時代造像銘記篇三
 (中央公論美術出版 平成17年)
宮本正尊 「天融寺所蔵阿弥陀如来立像並びに胎内納入文書について」 (「北海道印度哲学仏教学会会報」第二号 昭和63年)